ハンセン病資料館
先日、国立ハンセン病資料館を見て来ました。
離別、隔離…不治の病から、完治可能な病へ……しかし続く隔離
『差別の歴史』
色濃く何度も差別が強調され、ただ一文…鼻が陥没し、その外観に差別も致し方ない(私の要約)と記された資料館に…隔離された人々の想いを感じました。
もはや帰る事もかなわぬと死を感じ自暴自棄になる人
従わぬ入居者を集めた……厳しい寒さと暗さと飯だけの食事……日本のアウシュビッツと記された特別治療院(特別収容所)
※1947年に園長以下責任者は国に調査を受け処分を受ける
盲目になってさえも土木や洗濯に従事し苦痛に耐え乾かぬ皮膚から血を流し、使えぬ手で働く日々
仲間の介護や治療の手伝いも深夜に渡り24時間やらねばならぬ
※住居建築や荒れ地開墾もしていた(補修された当時の建物が今も敷地内に残る)
※1951年の三園長証言での宮崎松記さん証言からは‘職員が非常に少なく手を借りているが、結核と同じく治療は職員がやるべきです’というような事を言っている。…背景は分からないが人手不足はあったようだ(1人の医師で107名、看護婦は34名をみなくてはならない)
ただ生かされるのではなく、明日を生きたいのだと痛切な叫び
1946年、プロミン国内合成成功
1948年、24人試用
(特効薬と判明してくる…希望者殺到)
1949年、5000万円のプロミン治療薬予算決定
1948年、国民優生法(ハンセン病罹患者を強制不妊手術等の対象に組み入れた断種法)
1951年、国会での三園長証言
(全文ご覧頂けますと当時の様子と光田園長の今にすれば傲慢な偏りある発言が…読めます)
1953年、強制収容〜隔離強化を含めた「らい予防法」成立(改正)
法改正を叫び密かに各地連携をとって闘う日々
1970年頃には法を骨抜き(ザル法)とするが、(患者談を聞いた方のブログ、他より)法改正は叶わず
1996年、らい予防法撤廃
小泉内閣が異例ながら控訴せずに政府が過ちを認めたのは、寿命を迎える前に日の目を見せてあげたいとの入居者からの嘆願が届いたからに違いありません……。
らい…ハンセン病は根絶されていません。
しかし日本では根絶に近い所まで来ているようです。
多くの人を苦しめたこの病気が世界で根絶または根絶近くまでなる事を願って止みません。
尚、近年日本では1〜2人/年 程度の感染が報告されているようです
(海外はまだ罹患者が居るため、帰国者感染発覚が多い?)
その他感染潜伏からの高年層の発病等
(現代日本の健康度では感染・発症する可能性自体が非常に少ない、ハンセン病の感染力も強くないらしい)
ハンセン病の原因菌はビーカーでの人工培養は出来ず研究は遅れたが
感染は鼻粘膜よりの拡散→多量継続吸入による飛沫感染が主ではないかと見られているようです。
早期治療が望ましいのですが、親御さんが感染したまま→→お子さんが濃厚に菌吸入、または傷口より感染に至る可能性がある故に、貧困にあえぐ地域では根絶が難しいのでしょう…
私は現代に残るハンセン病がある事を今回知りました
資料館、ネット情報など、本当にごく一端ではありますが、歴史も見る事が出来ました
知って貰う事、それがハンセン病資料館ならびに関係者の願いです。
患者さん住居の近くにあり、資料館の内容表記は配慮と…患者さん目線の想いが込められています。
ぜひ機会あらばご覧下さい。
〜〜蛇 足〜〜〜〜〜
私は人の、社会の、枠である、法や政府のあるべき形や姿をうっすら求め続けています。
またコミュニティーの最大公約数的な楽しさ、快適さ、を支えるマナーとルールも探しています。
そして物事の選択肢の選び方を考えて最善とはどんなものか?というような事も求め続けています。
(患者さん1人1人の想いとは…また別に)
ハンセン病をとりまく環境、人々の考え方、マスコミと風潮、地域性、その時々の目的と選ばれた手段の適性さ度合い、変化、なぜ法撤廃が遅れたか…等々
まだ時間をかけて文献等から読み取っていきたいと思います。
歴史から学び、今に活かすために。
〜参考リンク〜〜〜
■三園長証言
(発言がほぼ全文入っています。元になったのは何の資料なのか未確認ですが、内容が読める貴重なサイト)